総務課員の独り言

『総務課員の独り言』

総務担当のYでございます。

どうぞ、宜しくお願い致します。

今回は私的な内容のみのブログなので番外編にして頂けたらと思います。

 

先日の話になりますが、田舎の実家に帰ってきました。私事ですが実の母が去年、急に倒れてしまい、病院にお世話になるという日が続いている為、お見舞いと父親の様子を伺いに行きました。

 

※田舎に帰ったこの日は、滋賀工場の応援スタッフを交えた飲み会があったのですが、自分はこの飲み会をキャンセル。この飲み会の前週の土曜日に田舎に帰る予定だったものの、滋賀工場の応援業務が入り、そちらを優先。この飲み会の日に帰る事にしました…。優先すべき順序があるのでまぁ、しょうがないかなと、割り切って…。

(飲み会の担当された方にはご迷惑をおかけしました。この場を借りてお詫びします。)

 

話は戻って去年、母が倒れた時の事です。

父親:「お母さんが倒れた…。医者から親族含めて集まって欲しいと言われている。来れるか?」

 

時刻は夜遅く、電車で帰るのも厳しい状況です。ビールも飲んでいたので、「明日の朝一には帰る。」と告げました。

 

田舎に到着すると母親の兄夫婦、私の父親と兄が控室にいました。母親はまだ手術中。もう10時間は経っていたようです。控室には手術、入院の同意書や数々の手続書類が並んでいます。事の重大さを改めて認識したうえで、父親に訊きました。

 

私:「原因は?」

父親:「脳動脈破裂…」

 

私は脳と聞いた時点で嫌な予感しかありませんでした。程なくして医者が控室に現れました。

 

医者:「終わりましたよ。命は取り留めましたが、意識はありません。これからの経過観察が必要です。」

父親:「先生、ありがとうございました。」

 

母親は集中治療室にいて、面会時間は限られています。実際に面会時間になって会うことになりましたが、なにも出来ません。変な話ですが母親に話しかける言葉も見つかりませんでした。この現実、状況が飲み込めません。

むしろ、病院で横になっている母親を見ても、

(いやいや、全然大丈夫やろ!)と思ってしまいました。

それは、時間が経った今でも同じです。不思議だとは思いますが、母親の元気な姿を見ていた時間が長い分、どうしても重く受け止めきれません。

もちろん、現実は全然違います・・・。だから、ある意味、自分が薄情にも思えてしまいます。

 

こういった状況は皆さん、それぞれが通る事なんでしょう。むしろ、もっと重たい現実だって経験されてる人も多くいるでしょう。ただ、今、テレビの健康番組でよく見るような展開が自分に降りかかってきました。

 

母親はというと、とても優しく、誠実で涙もろい性格の女性です。

昔よくあったテレビで、行方が分からなくなった人との再会するシーンを見て、ティッシュ片手に号泣。あと、映画の感動的なシーンや「初めてのおつかい」という小さな子供が初めておつかいをするという番組を見ても号泣します。あと、動物の感動ストーリーなんかも…(どんだけ泣くねん…というぐらいです)

 

あと、どんな子供にも平等に接します。友達と同じ輪の中にいれば、私が特別扱いされるという事は絶対にありません。(「平等」という言葉の難しさは大人になればなるほど痛感しますね…。)

 

そして一番は、私の事を成長に応じてよく考えてくれていた優しさだと思います。

例えば、遊びに行く時や帰ってきた時の挨拶を挙げると、

 

(幼少期)

友達の家の前まで手を繋いで歩き、

私 :「いってきます。」

母親:「いってらっしゃい。気をつけてね。また、帰る時になったら迎えに来るきん。」※きんは方言

とこんな感じ。

 

(小学校時)

私 :「友達の家まで遊びにいってくるきん。いってきます。」

母親:「いってらっしゃい。気をつけてね。夕方ぐらいには帰っておいでな。」

こんな感じ。

 

帰りにはお馴染みの「おかえりなさい。」「ただいま。」のやりとり。

 

ただ、おせっかいもあって、雨が降っている時なんかは、

母親:「今日は長靴履いていきな~。雨でビシャビシャになるから。」

私 :「え~、そんな履いたら走れんし…。」

 

と言いつつ、しぶしぶ履いて行った事を覚えています。

ちなみに周りの友達でわざわざ長靴なんか履いている人はいなかったので、めっちゃ嫌だった記憶があります。(子供の悪ふざけもあって、長靴を馬鹿にされたりするので…。)

 

(中学校時)

私 :「………」

母親:「いってらっしゃい。あんまり遅くなるんなら連絡取れるようにしといて。」

私 :「………」

 

帰宅時は、

母親:「おかえりなさい。」

私 :「………」

 

こんな感じでまさに反抗期真っ盛りです。

 

ちなみに父親と母親では対応を変えます。父親を前にして挨拶なしとなると、私自身が地獄沙汰になるので…。ずるいと思いますが、人と場面によって態度を変えていました。ある意味、母親への甘えです。この反抗期を受け入れてくれる受け皿があった事は大きかったと思います。

 

(高校時)

夜10時ごろ

私 :「遊びに誘われたから、友達の家に行ってくるきん。明日の朝には帰ってくるし。」

母親:「こんな時間から友達の家に行って迷惑じゃないの?お世話になるんやけん、向こうの親にちゃんと挨拶しなさい」

こんな感じ。

 

でも2週連続となれば、さすがにNGとなります。私の家は当時、一階建てだったので、玄関から靴を持ってきて、自分の部屋の窓から夜中に抜け出して遊びに行っていました。ただ物音に敏感な母親だったので、たまに捕まります。

 

母親:「あんた、こんな時間に黙ってどこいきよんな?迷惑になるような事しとったら、怒るけん!」

私 :「別になんもしてないし・・・。」

 

会話はあるものの素っ気ない、割と冷徹な自分でした。

 

そして、大学で田舎を離れることになり、それからは母親とのこの一連のやりとりは無くなったものの、たまに仕送りしてくるレトルト食品やカップ麺、お菓子の中には必ず手紙がありました。この頃、携帯電話が普及し始め、メールはあったものの父親、母親共にメールよりも手紙が好きで、手書きで書くという意味合いをすごく大事にしていました。

 

そして、今の私があります。

良し悪しも含めてちゃんと理解してくれ、叱ってもらい、見守ってくれてたことに感謝しかないです。こういう事が起きないとわからないですから。でも、こういう事があった後じゃ遅いんだなと…。

 

いまは限られた時間の中で、母親と向き合っています。

 

病室から出るとき、母親の手を握り、

私 :「家にいんでくるし、また来るきんな」 ※ いんでは方言 帰るという意味。

母親:「………」

 

母親の手を握るなんて幼少期にやって以来。今、この歳(おじさんです…)で自分が母親の手を握ることになるとは…。

そして無言の挨拶、これは反抗期の時のお返しですか?(笑)

 

あなたにはかないません。尊敬しますよ、ホントに。

少しぐらいその遺伝子、僕の為に分けといてくれても良かったんじゃない?(笑)

 

母さん、私はあなたの息子に生まれて幸せです。あなたを誇りに思います。

 

「ありがとう。行ってきます!!」

 

以上、総務担当のYでした。

これからも総務課員の独り言を宜しくお願いします。